Living Loving Leuven

溜池や ナマズ飛び込む 水の音

マイクロアグレッション

 ほぼ眠れなかったのですが、朝5時から、日本の某社とのオンラインのミーティングがあったので出席しました。私がレクチャーをする予定になっていて、こちらもいろいろと気を遣うことがありましたが、なんとか無事に終わり。ソファに倒れ込むと「今日はもう何もできないなあ」と天井を見上げます。
 幸運なことにパートナーが休みをとっていると知っていたので、電話をつなぎました。前日の語学学校での教師の発言について話すと「その発言はアカンでしょ」とキッパリ言われます。それでやっとホッとしました。自分でも、「あれは差別では」と思ってからも、「騒ぎすぎかなあ」とか「こっちではこの程度のことは当たり前だから、慣れないといけないのかな」などと考えては、憂鬱になっていました。聞いてもらえてだいぶん楽になりました。
 そして、先生からの謝罪のメールが来ました。「あなたが正しいし、ステロタイプ化してごめんなさい。こんなことはもう二度と起こりません」とのことでした。アンビバレンツな気持ちに。一つ目は、先生がすぐに自分の問題を認めて、謝罪してくれたのでほっとしたというのがあります。半分くらい「スルーか、反論かもしれない」と思っていました。なので、それは良かったです。二つ目は、「だからと言って、割り切れるような気分ではないなあ」と……。正直、もう授業には出たくないし、オランダ語学習のモチベーションも下がりました。教科書も見たくないです。ただ、今は単にショック状態で、時間と共に気分も変わるようにも思います。とりあえず、週末まで学校は休みなので、様子をみて、それでも気持ちが切り替わらなかったら、残念だけど履修は中止しようと思います。
 ちなみに、事務室からは返信はありませんでした。当事者間で解決してくれ、ということでしょうか。せめて返信くらいして欲しいけれど、かれらには期待はできないのかもしれません。
 なんだかとっても、悔しい気持ちです。今日届いたスーパーの会員カードのお得な割引だって、少しはオランダ語で読めるようになったんですよ!たった1ヶ月で大進歩だし、3ヶ月やればもっともっとよくなるはず。ここで止めるのはもったいない。のですが、今は「もう嫌だ」という気分でぐったりしています。
 こういう本当に小さな「悪意のない言葉」の積み重ねによる差別を、「マイクロアグレッション」と言うそうです。日本にいるときに、知り合いが教えてくれたのを思い出しました。こんなふうに説明されています。

 マイクロアグレッションは、差別の一種である。しかしやっかいなのは、発言をした相手が「差別している」という意識がないことも多いということだ。些細な日常の会話であり、むしろ本人なりに褒めたつもりなのかもしれない。

 こうした隠れた攻撃性に気付き、声をあげた人が「考えすぎだ」「スルーすればいい」「そんなに気に入らないなら出ていけ」などと非難を浴びることさえある。特定の人々が嫌い!というわかりやすい差別ではなく、見る人によっては差別に見えない細かなやりとりだからこそ、多数派である人々は無視できる、という不公平な構造があるのがマイクロアグレッションである。何年たっても無意識な差別を受けて、「自分はアウトサイダーである」と思わされることは、自尊心が喪失し、うつ、気力の低下、仕事の生産性などさまざまな悪影響につながる。

ideasforgood.jp
 私が今回、ダメージを受けたのはまさにこのマイクロアグレッションです。私自身も、やっぱり「これくらいのことで?」と思ってしまうし、スルーすればそのまま上手くいったとすら考えてしまいます。でも、こういうの、精神的には応えるんですね。
 そのあと、ブレイディみかこさんの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』2が出ていたのでそれをKindleで買って読みました。英国のブライトンで暮らすみかこさんと配偶者、息子を中心にした家族の話です。経済格差や家庭環境の困難の中で子どもが成長していく様子を描きながら、英国社会の問題を丁寧に掘り下げています。すごく良いエピソードもあって涙ぐみながら読みました。

 でも、彼女の配偶者や息子は、人種や民族の「ジョーク」はあるものとして笑い飛ばして生きていることが強調されていて、今の私には「うーん」となっていました。ブログなどを検索しても、日本からヨーロッパに移住した人たちの中には、こうしたジョークを笑えるようになるのが適応だと考え、日本人ももっと寛容になって笑うべきだという論調で主張をする人もいます。でも、私はそうは思えませんでした。それって、セクハラされている女性に「軽くあしらうのが大人の女の振る舞い」と同じだと私は思います。
 そもそも、私はセクハラや性差別発言でも、若い時から「あしらう」ということをしたことはなく、毎回、めちゃくちゃ深く傷つき、恨み、決して許したことはありませんでした。今でこそ、ずいぶん日本でもセクハラや性差別発言は咎められるようになりましたが、私が20歳前後の時には、抗議しても呆れられたりバカにされたりしたものです。でも、私は嫌だと思う気持ちに蓋をしたことはありません。それは、こうした人種や民族のジョークでもあまり変わりません。もちろん、私のいない場でジョークを楽しむ人たちをどうこう言うつもりはありませんが、私はこれからも自分に向けられたジョークは場合は受け入れないのだろうと思います。